Night Walk

イギリス留学とSEとキャリア理論と

フォトナ女子におすすめしたいNintendo Switch コントローラー

 

はじめに

最近Fortniteというゲームにハマっています。

クロスプラットフォーム(PS4,5、Switch、PCなどでプレイできる)で、完全無料のサバイバルゲームです。コロナ禍で外になかなか出れなかったこともあり、めちゃくちゃハマりました・・・笑 全世界中の人と対戦できるし、対戦が苦手な人もプレイヤーが作ったいろんなゲームを遊べて本当に自由度の高いゲームです。

フォートナイト | 無料でダウンロード&プレイ - Epic Games Store

 

ちなみに私は今年の初めにNintendo Switchを購入して、

そこからフォートナイトをダウンロードしてはじめました*

 

しかし、どうしてもSwichの純正のコントローラだと、なかなかうまくキャラクターを動かせず・・・一緒にプレイしていた会社の仲間の人に「コントローラーを買ってみたら?」と言われて、フォトナ向けにコントローラーを買うことを決意しました。

色々調べていく中で、「女子向けのコントローラー」の情報が少ないなぁと思い、20代女子目線でおすすめコントローラーについて書いていきます✍️

 

フォトナ女子におすすめのコントローラー3選

まずは純正「Switch Pro コントローラー」

まず真っ先にSwitchのコントローラーと検索して出てくるのが、Switch Proコントローラーだと思います。

任天堂が販売している純正品なので、動作はバッチリですし、こだわりがなければまずはこのSwitch Proコントローラーを試してみるのはありだと思います。

 

 

Proコンを選ぶ理由としては以下かなという印象です。

■ 純正の安心感

紹介はしませんが、コントローラーもピンキリです。中国製のコントローラーだとうまく接続できなくて使えない・・みたいなことも多くあるので必ず接続できて操作できるという安心感は最も高いです

 

ただし、以下のような評価が多いので、私はProコンは選択しませんでした。

■ 壊れがち(耐久性に問題あり)

いくつか評価をみた限りだと、割と壊れやすいという評価があります。特にフォトナのようなコントローラーを結構動かすゲームだと、耐久性が若干心配だという意見が多いのは不安要素ですね;;

 

■ 自分の手にフィットしない

この後別の製品で詳しく説明しますが、正直一般的な女子の手だとフィットしない大きさだと思います・・・。私は割と手が大きい方なのですが、それでもデカめだなぁという感じで、余計疲れてしまうという問題点がありました。

 

高評価の外国製「PDP Afterglow Pro コントローラー」

続いては私が現在利用しているPDP AfterglowのProコントローラーを紹介します。

アメリカ製ですが、向こうで任天堂のライセンスを取得しており、準純正品として高い評価を得ています。値段は純正品よりもお高いのですが、それでも高評価でおすすめされている製品です。

 

私がこの製品を選んだ理由は以下の通りです。

■ 高評価が多く、製品のクオリティが高い

私自身使っていて不便なところは全然なく、快適に使えています。純正品の耐久度の問題がありましたが、こちらも若干壊れやすいという意見はあるものの、クチコミとしては少ないです。高いお値段ですが、しっかりした製品を買った方が絶対お得だと思います!

 

■ 背面にボタンがあり、自分で設定が可能

これは純正品にはない要素なのですが、背面に2つボタンがあり任意のボタンと対応つけることが可能です。フォトナのようにいろんなボタンを利用してゲームする場合、ボタンが増えた方が色々とやりやすいという面があり、これが決めてでこの製品を購入しました

 

ただし、こんなに褒め称えつつも若干の難点もあります。

■ デザインに好き嫌いがありそう・・笑

ゲーミングPCのようなスケルトンで、色鮮やかなライトが発色されるタイプなので、好き嫌いは出てきそうです。私は普通なので、使い勝手がよければ全然OKなタイプなのですが、色がチカチカするので苦手という人はいそうです。

 

■ 自分の手にフィットしない!

これは純正のProコンと同様です・・・やっぱり女性の手だとしっくりこないですよね。悲しいかな本当に若干・・若干だけ大きいんです。

ちなみに実際に私が持つとこんな感じです。おそらく私は普通の女性よりも手は大きめだと思うので目安程度に見ていただければと思います。写真だとフィットしてそうには見えるんですが、実際長い時間持ってしまうと手が痛くなってきてしまうので、ここだけが本当に残念です・・・;;

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小さめなコントローラー「CYBER ジャイロコントローラー ミニ」

 

というわけで、小さめなプロコンを探していたところ見つけたのがこちら。だいぶ小さめな作りなので、上のふたつのように手にフィットしないという問題はなさそう・・!

 

 

ただし、フォトナのようなTPSゲームだと少し操作的に難しいという点はありそうです;;

次にコントローラーを買うのなら、このコントローラーを試してみようかなと思っています。

もちろん、カジュアルに楽しむならこのコントローラーでも全然出来そうです!様々なカラーバリエーションを持っているようなので、自分の中でよさげなものを見つけてぜひ試して頂ければと思います。

 

まとめ

3つのコントローラーを紹介してきました。

女性目線で見るならば、やはり「手にフィットするか」そして「デザイン性」かなと思います。どうしてもコントローラーは、男性の手をベースにしているので、手にフィットしずらい印象です。

もし可能なら、一度中古ショップなどで、大きさを確認したり、周りに購入済みの人がいるなら試させてもらってから購入するのをお勧めします。

 

 

Feel Specialという神曲について

 

最近、毎日のように聴いてしまう曲がある。

 

TWICEのFeel Specialだ。

 

たまたま、TVで流れていて曲調が気に入りYoutubeで検索した。もともとTWICEは自分の"推しの推し"であり、私の親友からもおすすめされていたが、有名曲以外はそこまで知らず、ちょこっとだけ聴いたことがある程度の距離感だった。

そんな状態で、MVを見た。

www.youtube.com

 

見終わった後、気がつけばもう一度と、自然と再度再生をしていた。何度も何度も再生し、いつの間にか涙が流れていた。

曲調も最高だったが、何よりも「歌詞」が本当に素晴らしかった。

 

「世の中がどんなに私を座らせても、

 傷つく言葉で私を中傷しても、

 あなたがいるから私はまた笑う」

 

上はサビの歌詞の一部だが、この曲は全体を通して「自分が落ち込んだ時、世界からいなくなってしまいたいと思った時、"あなた"がいてくれて、笑いかけてくれることで、私は"特別な私"になれる」ということを歌っている。

この歌詞がダイレクトに胸を突いたのだ。軽い気持ちで聴いてしまったのが悪かった。マジで、大号泣案件だった。

 

久々に曲でこんなに泣いた。アラサーの涙腺、本当に弱すぎる。

自分でも訳が分からなかったが、1週間ぐらいずーっとFeel Specialだけを聴いていた。

 

そして、その後正気になって「なぜこの曲がここまで自分の胸に刺さったのか」を考えてみることにした。
一見、ありきたりな応援ソングに聞こえるかもしれないが、この曲は「曲調」「ダンス」「MV」「歌詞」どれをとってもSpecialであり、だからこそ、ここまで人の心を動かせるんだというのが、私が考えついた結論だ。

 

パワフルであり「Grils Power」を感じさせる演出

この曲は、一言で言ってしまえば「落ち込んだ時の応援ソング」である。巷にはそういう曲はごまんと溢れており、そんな曲の中でも心を動かせるものは一握りだと思う。

私がこの曲を特に「Special」に感じた理由は、落ち込みを表すかのような「暗さ」や「悲しさ」を一切感じさせない演出にあったと思う。

MVを見てもらえればわかる通り、アップテンポな曲調に合わせた激しめのダンス、イケイケな衣装、豪華なセットの中でこの曲は紡がれている。

歌詞を見なければかなりゴリゴリの曲のようにも感じるが、それだからこそこの曲の「強さ」を象徴しているように感じる。弱さを持った自分が、"あなた"のおかげで「強く特別な自分になれる」ということを高らかに歌いあげているのだ。

この演出により、決して、"あなた"に依存しているわけではなく、自分自身で立ってるからこそ感じる不安という風に歌詞を読み取ることが出来た。

自分の弱さを受け入れ、理解者と共に世間を生き抜いていかんとするパワー溢れる楽曲だからこそ、現代において共感性が高い楽曲になったのではないだろうか。

 

何十通りの解釈が可能な歌詞

私が一番この曲に心惹かれた理由は「歌詞」である。歌詞をじっくりみていくと、改めてJYP凄すぎると舌を巻いてしまうほど。

この曲はそもそも、TWICE自身がファンに向けて送った曲であるというのが定説らしい。「自分が落ち込んだ時にファンがいてくれるから特別になれる」というメッセージが込められているということも聞いた。

ただ、この曲は上以外にも様々な解釈が可能だ。特に"あなた"に対して、恋愛的な関係性を想像する人は多いかもしれない。ただ、この歌詞では一度も恋愛的なRelationshipを仄めかす内容は出てこない。これは「友情について」や「家族について」であってもいいし、「アイドルからみたファン」でもいいし、逆に「ファンからみた推し」でも上手く歌詞に当て込められる。

つまりは、聞いた人が「自分をSpecialにしてくれる人」を想像し、自分なりの解釈が可能なのだ。そこに本当に心底驚いた。歌詞が、うますぎる・・・!

私がこの曲を聞いた時に真っ先に思い浮かんだのは「推し」だった。推しに生かされていると言っても過言ではないオタクですらこの曲に共感できるというところがすごい。

自分が落ち込んだ時、元気にしてくれるものがある人は等しくこの曲に共感できるし、感動できるだろう。

 

 

しみじみと感動してしまい、久々にブログに書いてしまった。

ここまで語りたいと思った曲は久々で、自分でもびっくりしている。毎日聞いても飽きない名曲に出会えて、私は幸せ者です。Feel Specialにしばらく浸りたいと思う。

留学を挫折したニートが、転職するまでの約1年間の記録

お題「#この1年の変化」

 

2020年、いろんな人にとって、これまでにない年だったと思う。

それは、いろんな人が夢を諦めたり、環境に苦しめられたり、でも逆に新たな可能性を見つけたり、絆を深めたり、そんな年だったと思う。

私自身も、環境に振り回され自分自身に振り回され、人生でもっとも混乱した1年だった。そんな私のこの1年の変化について、書いて行きたい。

自分の中での記録でもあり、少しでも同じ状況にいる人に届いたらいいなと思う。

 

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2020年3月、会社を辞めた。ちょうど、新型コロナという言葉が出回り始めた時期だった。

新卒で入った会社は、いわゆる大手と呼ばれる会社で、収入も待遇も申し分なかった。社会人として働いた数年間は私はあまり後悔はない。自分の選択も間違ってなかったと思う。

ただ、社会人として働く中で、どうしても勉強したいことが出来た。それは、大学時代から少しずつ考えてきた「働くこと」そのものを抜本的に変えたいという願いからきていた。働き方や組織の在り方について勉強をしたいと考え、そのためには海外の事例も含めて自分の中で知識を貯めることが必要だと結論づけた。

 

そうだ、海外の大学院にいこう、ある冬の日にそう思い立ったのだ。

そこからの行動は早かった。ひとまず会社を辞めようと思い、上司に相談した。大学院について色々と調べ、このタイミングだと2020年9月には少し間に合わなさそうなこと、お金も必要なことを知った。

流れとしては、2020年秋頃から海外に拠点を置き、勉強しつつバイトをしながらお金を貯める、その後大学院をいくつか受験し、2021年ごろから大学院で勉強を始める。というものだった。それまではアルバイトをしつつ、東京にいながら勉強をしようと考えていた。

 

ただ、そう思い立ったあの冬の日から、私が会社を抜けて、外の世界に飛び出そうとする時、状況は大きく変化していた。

 

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4月、新型コロナは日本でも猛威を振るい始め、「緊急事態宣言」が発令された。

その時、私は仕事も、家も、なにもない人として東京にいた。

 

 

勤めていた企業の寮に住んでいた私は、仕事を失うと同時に家も失っていた。部屋探しを始めた3月頃、コロナの話題はニュースのメイントピックになりつつあり、都心に人気が少しずつ減っていった。

4月始めに、ひとまずギリギリで安くて小さい部屋を見つけ、そこに住まうことにした。さらに海外に行く前に受けようとしていた興味のある公開講座が次々と休講になり、部屋から一歩も出ない生活が続いた。

 

もちろんそんな中でも勉強は出来る。今後のことを考えて、英語の勉強もしなければ行けなかったし、自分の勉強したい分野の文献を読むことも出来た。

ただ、心に巣食う漠然とした将来に対する不安が、毎日少しずつ自分の心を蝕んでいった。

勉強をしたいのに、勉強に集中できなかった。ただ、部屋の中にいて、気晴らし程度に NetflixやHuluなど動画配信サイトで、ドラマを見る生活。部屋にいながら、ただ時間を消費するだけ。面白いコンテンツを見て、現実逃避をする。

そんな自分に、だんだんと自己嫌悪が襲ってくる。自分の将来のために「仕事をやめる」という決断をしたのに、あの選択は間違ってたんだろうか。勉強したいと思って飛び出してきたのに、勉強が出来ない。将来が見えない。どうしたらいいんだろう。

その繰り返しで、緊急事態宣言の中、日々がただ過ぎ去っていった。

 

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その数ヶ月後、東京にいることを諦めた。これ以上、限界だった。

一人で部屋に閉じこもって、仕事もない人間が東京という土地にいるのは、金銭的にも精神的にも限界だった。

実家に帰るという選択をした時、「後悔」「両親に対する申し訳なさ」に押しつぶされそうだった。けれど、それ以上に、自分の中で東京に居続けることは限界を迎えていた。両親は自分を何も言わずに迎え入れてくれた。ひとまず、人の居る生活が手に入った。

 

そしてその時は、もう自分自身勉強することを諦めていた。もしかしたら、「大きな間違いを犯した」のかもしれないとすら思い始めていた。

実は、あの冬の日に決断した「海外で勉強したい」という思いは偽物で、ただ社会人生活という現実から逃げ出したかっただけなのかもしれない。そう思っていた。

勉強するというモチベーションも霧の様に消え失せて、残った自分のかすかな心で、たまたま見つけたリモートワークを週2〜3でやる日々。

アラサーにもなって実家に住み、ただ漠然とアルバイト生活をするなんて思ってもなかった。

たった数ヶ月前は、自分の将来設計に胸を高鳴らせていたのに...。

 

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世界的な流行となった新型コロナの収束予測は、時を経るごとに長期化していった。

最初の頃は、2020年内には収まるのではないかという声もあったが、初夏頃には到底無理な話だということが見えてきた。

さらに、夏を過ぎる頃には、2021年も怪しいという話まで出てきて、この新しい病気と人類との戦いは長期化する見通しが立ちつつあった。

私の、留学の計画は最早どの局面に置いても、無理な話となっていった。

 

その頃、やっと自分の中でも、この状況と折り合いがつき始めた。あの緊急事態宣言から4ヶ月弱。少しだけ、目の前のことを考える余裕が出来た。

自分の中でした決断に後悔をし、どうしても前を向けずにいたが、実家に帰ったということと、その頃から習慣として始めた「散歩」がいい気分転換となり、少しずつ気分が立て直されていった。そしてやっと自分とこの環境に向き合う決心が着いた。

よく実家近くの田んぼ道を歩きながら、今後どうするべきなのかを考えていた。実家はど田舎に位置しており、道を歩いている人などほぼいない。ばったり出会うのは、鬱陶しい蚊の大群ぐらいだった。

歩いていると、スマホやネットからの情報から遮断され、ただ自分の思考と向き合うことが出来た。歩きながら問いかける。どうする、どうしたい、自分?

 

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やっぱり、もう一度社会に出るのがいいんだろうな、と歩きながら考えることが多くなった。

言っても自分はアラサーだ。友人の同級生たちは皆働いているし、私も数ヶ月前まできちんと働いていた。かたや、この数ヶ月間、ほぼニート状態の自分。アルバイトとはしていると言えども1年前と比べればもう働いていないに等しい。

「働き方」について考えたいと、会社を飛び出してきたのにこの有様である。と自分を卑下したこともあった。こんなニート期間があるアラサーをどこが雇ってくれるんだろう、とも言いたくなった。コロナ禍でどこの企業も、経営は厳しいはずだ。

転職という道を選んだ時に、状況はますます厳しくなるだろう。

 

あまり前向きな選択ではなかったが、「転職をしよう」とやっとここで考えることができた。もちろん、日本の大学院にいくという選択もできたとは思う。ただ、私が選んだ計画の中では、海外に行くことはマストだったし、日本で学ぶのであれば、仕事をしながらの方が絶対にいいと思っていた。

ここで始めて、自分の中で描いていた空地図を変更し、転職をしよう!と思いたったのだった。

 

 

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思い立ったものの、転職活動は難航した。

転職の動機が後ろ向きなものであったという部分もあるし、ニート期間を挟んでいるアラサーの経歴はなかなか通り辛い。さらにその理由が「海外に行きたくて、行けなくなったので」なのだ。すぐ居なくなってしまいそうだから、と門前払いもされた。めちゃくちゃわかる、と自分でも納得した。

 

なにより、このチョイスを心の奥底で納得をしていなかったというのもある。環境的な要員で、進学ではなく転職を選んだという、負の感情。そこをきちんと処理しなければ、転職は難しいと感じ始めた。

そこで、この転職で実現したいことを考える必要があると思った。この決断を「自分自らがしたポジティブなもの」にする必要があったのだ。

 

改めて、自分がやりたいことはなんだろう。知りたいこと、自分の興味のあることはなんだろうと考えた。自己分析のための書籍を読んだり、カウンセリングを受けたりした。

その中で、一番真っ先に書いた言葉が「働き方について考えたい、そのために知識をつけたい」だった。

 

この言葉が真っ先にでてきたことに、まず驚いた。

コロナ禍で、後悔していたあの選択。自分が学びたいなんて思いは幻だったという思い。それなのに、私の心の中から素直に出てきた言葉は、あの冬の日に出てきた言葉と全く同じだった。

嬉しかった。私、まだちゃんとあの時に感じた気持ちだったり、やりたいと思ったこと、やりたいと思っているんだって。

 

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その言葉をもう少し考えることにした。

その当時は、働くことよりもまず知識がなさすぎるから勉強しよう!という気持ちが強かったが、働き方について考える仕事であれば、働きながら自分のやりたいことも実現できるのでは?と考え始める様になった。

 

さらに、もっと言ってしまえば、働くことは「働き方を考える」ことでもある。

自分なりに、「働き方を工夫できる職場」「多様な働き方がある職場」にいれば、自分のやりたいことの一部である、「働き方について考える」は実現出来そうだ。

 

その点に気づいてから、今回の転職の目的を改めて再定義した。

自分の実現したいことを真っ直ぐに面接でぶつける様になった。

 

 

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転職活動を始めて、4ヶ月。自分の実現したいことを再定義して2ヶ月。

やっと1月。転職先がきまった。

 

多様な働き方を認める企業で、その中で自分のやりたいことと、自分のできること、企業側が求めていることが奇跡的に一致し、自分自身納得して、先に進めることになった。

 

ここまでくるのに、本当に長かった。

やりたいことがある!と会社を意気揚々と会社を飛び出したにもかかわらず、うまく行かなくて、自分のことが嫌いになって、後悔ばかりして、、、そこからやっと立ち直って、転職活動を始めて、最後にやっと自分が納得できる選択ができた。

 

この1年で感じたことがたくさんある。

それは、自分の力ではどうにもできないこと(社会環境)があるということ。

環境の変化に適応するのには数ヶ月かかるということ。

社会の外れ者になると、見えてこなかった側面が見えてくること。

散歩は、一番の特効薬なこと。

 

なによりもこの1年間、自分本当によく頑張ったなと褒め称えたい。

もっとできる人、意思が強い人は、もっと早く転職できただろうし、いろんな違う方法をとって自分のやりたいことを実現できたのかもしれない。でも、自分の中ではこれがやっとだった。1年間ギリギリの中、よく生き抜いたって、自分を抱きしめたい。

 

 

この1年の変化を一言で言うと、自分を少しだけ好きになった。

どうにもうまく行かない日々もたくさんあるけど、少しずつ納得して生きていくしかないと割り切れるようになって、自分がだめな時も好きになれた。

あの日々を美談にするつもりはないけど、自分のペースでこれからも生きていこうと思う。

 

 

臆病で努力のできない27歳の自分へ、推しを見てがむしゃらで走れ

 

これは、「自分なりの決意表明」である。

 

だから別に、ブログに書く必要は特にないのだが、でも自分の中で「決意表明を世界中どこでも見えるところに置く」ということは、自分がその決意を簡単には取り消せないという点で重要であると考え書いている。

 

私は、この3月に会社をやめた。

様々な要因がたくさんがあるが、やめるきっかけとなったのは「海外の大学院に行きたい」と思ったからだ。社会人として4年勤めてきて、向き合い、出てきた思いがこれだった。社会人生活もそれなりに慣れてきて、でもずっと前から違和感があった。仕事というものを淡々とこなし、社会の歯車になることに。

検索していく中で、院で学びたい分野に出会った時、私はやっぱり学びたいんだととてもしっくりきた。私は"知識"が欲しいと思った。もう一度自分の土台を固めて社会にチャレンジしたくなった。

 

そして、やめて数ヶ月経つ。私は本当に露頭に迷っていた。

そんな態逸れた宣言を元会社に突きつけてきたのにもかかわらず、コロナが降りかかり、もともと院に行く前にと考えていた海外渡航もできなくなり、そして決意も喪失していった。

海外うんぬんの前に外にすら出れない状況だ。最初の方は、しょうがないと思ってじっとしていたのだが、段々と時が経つにつれ、今年の始めに感じた熱量は消え失せ、ただただ生活をしていた。大学に行くための勉強もしていない。せっかく勉強した英語の知識も少しずつ脳内から削除されていく。積み上げたロジックはすべて、誰のせいでもなく計画倒れになり、どうしようもなく東京から実家に逃げ帰ったりした。

本当にその学問が学びたいのかも正直わからなくなっていた。

 

私は腐っていたと思う。「だってどうしようもない」を免罪符に、ひたすらに堕落した生活をしていた。一応、念の為言っておくが仕事はしている。勿論以前いた会社よりはだいぶ給料は下がるし、リモートでの作業ではあるが、一応社会人として働いてはいる。しかし、それは言葉の通り「一応働いている」である。コロナ禍にずっと感じていた焦燥感、もどかしさ、ただそれを心の中に仕舞い込んだまま生きてきて、ただそれだけで4ヶ月がすぎた。

当時、私はそんな自分の堕落した状態であることを自分できちんと理解もしておらず、時は無情にもあっけなく過ぎ去った。

 

ある日、私はいつものように、海外ドラマを見たり、Youtubeを見たり、SNSをぼーっと見たりしていたりしていた。ただ、ちょっとその時は珍しく気分を変えようととなんとなく昔買った、伊沢拓司の「勉強大全」のページをめくった。

 

 

私は去年からYoutuberにどっぷりハマっていて、特に「東海オンエア」と伊沢拓司が率いる「QuizKnock」は、毎日見るぐらい大好きだった。Youtuberにハマり始めた去年、推しである伊沢さんの本だし買おうと思って買った本だ。勿論その当時、読破済み。

勉強大全は、伊沢さんが主に受験生向けに書いた「勉強本質」の話をしている本だ。一見こういうと堅苦しいように聞こえるが、内容はかなり優しく噛み砕いて書かれている。ただ「こうやれば学力上がるよ!」みたいな学力アップのための本ではない。伊沢さんの実体験を交えながら、ただの教育本という立ち位置ではなく、"勉強"に対してもう一度向き合おうと思えるとても素晴らしい本だ。

 

そして最初の数ページ読んで、気付いた。あれ、この本、私の話してないか・・・?

読んでいて冷や汗が出た。本の最初の章では、伊沢さんの受験の実体験について書かれている。高校2年の途中まで全く勉強をしてこなかったこと、そして気持ちを入れ替え途中から熱心に始めたものの、3年のはじめに学校行事にかかりっきりになり、また勉強もせずただただ腐っていたことが書かれていた。そこから6月以降改めて、意味付けや様々な方法で心を切替え、勉強に向き合うようになったことも。

 

私、今年の3月までは、留学のためにと熱心に英語の勉強をしていて、試験でもまぁまぁな点数を取り、行けるぞとなったけど、それ以降、なんかしてたっけ・・・?

そこで初めて気付いたのだ。私は約4ヶ月に渡って、なにもしていなかったことに。

 

この本を読んでから、伊沢さんの言葉が刺さった。

www.youtube.com

「下ってどこまででも落ちていけるから。大学受験の中で上は限りがあるけど、下って無限に落ちていけるわけ。だってやんなきゃいいんだもん」

 

コロナで緊急事態宣言が出て、それから私はなにもしてこなかった。"努力"という努力はせず、自分に甘えきっていた。伊沢さんの言葉を借りると、無限に落ちていっていたのだ。漠然とした焦燥感がきちんと言葉になった。

「私、腐ってたんだ。」伊沢拓司という推しによって気付かされた。

 

勉強大全を読んで、その後伊沢さんがでている動画をいくつか改めて見直した。いろんな気付きがあった。推しである伊沢拓司は、伝え方のプロだ。本当に言葉の選び方が丁寧でかつわかりやすい。彼が話す様々な要素から、"勉強"や"努力"というものについてもよく考えるようになった。やっぱり、自分の人生を進むためになにかしら走ることが必要だと感じた。

 

今年はあと5ヶ月しかない。だが、私にとってはありがたいことに5ヶ月ある、とも言える。

大学院にいくという目標については改めて考える必要がある。(この最中であまり海外に行くという選択肢にむけた努力はしづらい)ただし、だからといって今なにもしないは正解ではないと気付いた。新しく自分の中で目標を定めて、自分なりに納得できる努力をしようと思う。

 

なので、ここで宣言したい。

私は12月まで自分に向き合い、自分が好きになれるぐらい「努力」をしてみようと思う。

 

 

 ちなみに、「勉強大全」は、この本だけで1記事作りたいほどに素晴らしい本なので、なにかしらの「勉強」をしたいと思っている大人のみなさんもぜひ読んでほしい。とにかく、モチベが上がること間違いなし。

あと、ところどころ出てくる推しの写真が最高(余談) 

勉強大全 ひとりひとりにフィットする1からの勉強法
 

 

大学デビューした人間のいつメン(死語)Tシャツの思い出

今週のお題「お気に入りのTシャツ」

 

あなたには、「エモいTシャツ」というものはあるだろうか?

 

例えば、デートの時に元彼が着てきたちょっとヤバめなサイケデリックな猫がたくさん描かれていたダルダルのTシャツや、元推しがラジオ収録で着ていた同じくやばめなウマヘタな猫が1匹描かれているTシャツや、大好きなアーティストの初来日ライブでギリギリに到着してしまったため買うことが敵わなかったバンドTなど、なにかと思い出があるTシャツというものは存在する。見るだけで甘酸っぱくなったり、少し寂しくなったりする。(全て実話である)

その中で、今回は私のとびっきりのエモいTシャツについて話したいと思う。

 

私は、所謂大学デビュー組だった。

中高と部活漬けの生活をしていて、スカートの丈を短くしたことも、髪を染めたこともなかった。朝早くに学校に行って練習、終わるのは夜遅く。夏休みも冬休みもほぼなかった。化粧をしていた高校の同級生にびっくりしてたし、男女のグループなんて都市伝説だと思っていた。

そんな典型的陰キャな中高を過ごした私は、東京の大学に進学し、少しでも自分が味わって来なかった「青春」を味わおうと、サークルに入ったり、新しい友達を作ったりと、今までなかった自由を謳歌していた。

 

そして、大学2年の頃、私は思い描いていた「青春」に出会う。

所属していた学部では、2年生でゼミが始まり、半年毎に好きな教授のゼミを選択できた。3年から本格的な卒論研究のためのゼミナールが始まるため、いわばお試し的なゼミである。大学には一般的なクラスは存在しないので、このゼミがいわば中高におけるクラス的な立ち位置になる。半年とはいえども、6ヶ月間研究テーマを決め、グループで研究をしなければいけない。

そこでグループになったのが、私が中高の頃に幻だと思っていた男女グループだったのだ。その当時の私は、いやマジで私にもあるんだこんなこと、と思った。マジで漫画の世界だけだと思ってた。そのグループは、私と女友達、そして男友達3人の5人構成されていた。私たちはすぐに打ち解け、そしてよく一緒に過ごすようになった。"ノリ"が異様に合ったのだ。ラインのトークはすぐ会話の応酬でいっぱいになった。正直私たちがそのゼミの中で一番仲が良かったと思う。

 

そこからは「青春〜!!」みたいな日常だった。中高の隠キャな私が知ったら失神するレベルでアオハル!である。私は案の定その中の一人のことを好きになったし、友人も別の男の子を好きになりすったもんだの上、付き合ったりした。みんなでディズニーランドにも行ったし、お泊まり会もした。え、私の恋はどうなったかって?好きになってからすぐ、彼が私の別の友人と付き合ってることが発覚したよ馬鹿やろう。マジで漫画かよ。そんな日常が続いたのである。

 

そして、夏のある日、私たちはついに旅行にいくことにした。場所は群馬。かなり渋めだが、みんなで決めて初めての旅行だった。お金は勿論ないので、車で行って安い宿に1泊をする算段である。特になにも決めてないが、ただワクワクだけが頭に浮かんでいた。多分全員そんな感じだった。別に場所などどこでもいいのだ。ただみんなでどこかにいき、同じ経験をみんなで共有することが大事なのだ。

私はその日程が近くなか、「旅行に向けてなにかしよう!」と提案しに男友達Aの部屋を訪れていた。彼の部屋はよくみんなが集まる集会場的な立ち位置で、私にとっても勝手知ったる部屋だった。その時はAしかいなかったので2人で話し合い、「なんかお揃いのものあったらいいよね!」と、クラスTシャツならぬグループTシャツを作ることにした。

 

ただし、高校のクラスTのように発注するとなると日程的にも金額的にも間に合わない。そこでAは言ったのだ「俺たちで描けばよくない?」と。今思うとだいぶとち狂った発言だと思う。しかしその時、私たちは初めての旅行への高揚感に、感覚が狂っていた。それを受けて私は、こう言っていた「それだ〜〜!」と。

 

二人でそのまま、ユニクロに向かった。安そうな無地のTシャツといえばユニクロである。ユニクロにいくだけでもやけに楽しかった。ただ無地のTシャツを人数分買うだけなのに、お祭りに浮かれた若者そのものである。Aとやたら真剣に"俺たちに最適なTシャツ"を選ぶ。正直どれも一緒だろう。しかし、その時は「最適な」ものが存在していたのだ。

お目当ての無地のTシャツを購入した後、そのままAの家に戻り、馬鹿になりながらTシャツを作成した。勿論デザインセンスは皆無のため、すべてノリでデザインを決めた。適当にAの家にあったアメリカン○ーグルのロゴを真似て背中側に入れたり、私たちのロゴ勝手に作成し、胸のあたりに書いたり。Aとどんな会話をしたのかはさっぱり覚えていないが、やけに爆笑していた記憶がある。そういうのが、大学生というものである。内輪ノリが至極であり、ノリで全てが決まることが楽しくてそして少し嬉しい。

そして二人で出来上がったTシャツを眺め、お互い満足そうに頷いた。当日までの私たちの秘密にしようと笑いながら。

 

当日、私とAは他のメンバーに「グループTを作った!」と自慢げに言いお手製Tシャツを手渡した。メンバーも大喜びし、みんなで早速お揃いで着ることにした。そこから旅行中、私たちは全員そのTシャツを着て過ごした。

一つ一つの経験を共有しながら、笑って、笑いすぎて泣いて、1泊2日の私たちの初めての旅行はすぎていった。群馬にいったらしいが、ちなみにこちらも同じく内容はほぼ覚えていない。青春とは記憶が消えることなのかも知れない。とにかく"楽しい"という感情だけが残っている。

 

前置きがひたすらに長くなったが、私にとってこのグループTシャツはいわば"青春の塊"なのである。作った過程も、着た記憶もエモでいっぱいだ。適当なデザインも愛おしい。

あの時、たった一瞬の煌めきだった大学時代の青春が詰め込まれている。

 

まぁ、こんなことはいいながらも、このTシャツは現在母親の寝巻きとなっている。

 

Lucky Kilimanjaroという"エモいアーティスト"について

 

「エモい」という言葉を考えた人に、私は高級メロンかなにかを贈りたい。

 

なぜかというと、私が今まで概念化出来ていなかった「とても好きなコトに対する感情」を簡単にラベリングしてくれる言葉だからだ。ずっと昔から、私が好きだった瞬間は、全て「エモい」で説明できるようになった。マジで高級メロンどころではない、なんだ?金一封か?とりあえず口座番号を教えて欲しい。振り込むから。

 

夏のモクモクした入道雲と真っ青すぎる空を見た時、

沖縄の落ちてきそうな程の、キラキラしたたくさんの星をみた時、

大好きな親友と海辺で語り合って、大声で笑っている時、

あの泣きたくなるような、胸を締め付けられるような、一瞬一瞬を大切にしたくなる感情を私は総じて「エモい」と呼んでいる。エモいは「感情が動いた時」という意味があるらしいが、私はその瞬間が特別大好きだ。一つ一つを心のアルバムに仕舞い込む程に。

 

そして、先日、自分の"エモいリスト"に新しくアーティストの名前をそっと書いた。

それが、「Lucky Kilimanjaro」だ。

 

きっかけは、たまたまみたYouTubeの動画のBGMだった。

 

www.youtube.com

 

この動画は山形県の観光資源を外国の方に向けて宣伝するために、山形県が作成した「STAY YAMAGATA」という動画。山形の美しい景色や、魅力的な文化について、美しい映像と共に紹介している。その映像の中でBGMとして流れているのが、Lucky Kilimanjaoのボーカル熊木さんの曲。

たった1回聞いただけでも、思わず口ずさんでしまう程キャッチーで、かつシンプルで耳にスッと入ってくる歌声。コメントでは外国の人がしきりに「この曲名を教えてください」や「誰が歌っている曲なんだ?」と話題になっている程。

 

 

私も、この曲を聞いて、「どんな人たちなんだろう」と興味を持ち、

Lucky Kilimanjaroを知り、そして下のMVを見つけた。

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すごく純粋な感想を言えば、私は聴きながら「嬉しすぎて号泣」していた。

 

あまりにも好きな曲を見つけた時、自分ではよくある現象なのだが、それは私にとって人生でもっとも嬉しい瞬間で、感情のキャパシティが超えてしまう。私はこの曲を聴きながらボロボロ泣いた。この曲に出会えたことが、心底嬉しかった。

 

彼らの曲「ひとりの夜を抜け」はまさに、「エモの具現化」だった。

真夜中に突然走り出したくなるような瞬間は、誰にでもあると思う。この曲は、まさにこの感情を、軽やかにそして素直に歌い上げる曲だ。イヤホンをしながら、好きな曲を聞いて、真夜中の点々とした灯と、誰もいない道で、スキップするように歩く。

 

なにかある訳でもない、だけと無性に踊り出したくなるほど感情が高ぶる瞬間、まさに「エモい」瞬間。それを丁寧に切り取る。とんでもないアーティストだと思った。

 

「エモめの夏」、タイトルにエモが入っているが、とにかくエモのてんこ盛りだ。夏の休日、花火、海辺、夏のウキウキが全て詰め込まれている。大切な宝箱のような曲だ。

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こんな最近知った新参ものがLucky Kilimanjaroについて語るのは、忍びない。とにかく、私の言葉ではなく、彼らの曲を聞いて欲しい。あなたのエモいモノリストにきっと入るはずだ。

私と、父と、ジェフユナイテッドと。

お題「#応援しているチーム

 

 

物忘れの激しい私が、強烈に覚えている記憶がある。

 

私が幼い頃、父親はよく私をサッカー場に連れていった。父はその頃、サッカーが一番好きなスポーツで、私はそれに付いていく形で、スタジアムに行った。

そのスタジアムでは、父は別人のようだった。私は父に怒られた記憶は1mmもないが、スタジアムではヤジを飛ばし声を出し応援をし、全力でチームを応援していた。幼いころの私は、その姿が少し怖く写ってしまい、あまりスタジアムという場所にいいイメージを持っていなかった。そこから、「サッカー」に対しても、あまりいいイメージを持っていなかった。

 

でも、あの空気は今でも鮮明に覚えている。夕方の西日が射すスタジアムに、人々の声が響き渡り熱気に包まれる。やけにボロく感じたスタジアムの内部と、簡易的な座席。全力で駆け回る選手だ。そういう風景は、あの頃、しっかりとココロに焼き付いた。

 

そして時は経ち、私は大学生になり、サッカーの面白さに今更気づくことになる。

サッカーにハマった私が、まずしたことはスタジアムに行くことだった。小さい時に感じたあのスタジアムの雰囲気を味わってみようと思ったのだ。しかも一人で。オタクの行動力はすごい。決めたら即行動。

私は、あの頃に父が全力で応援していた地元チーム「ジェフユナイテッド」のスタジアムに向かった。生憎、私が小さいころに行っていたスタジアムとは場所も施設も変わっていたが、中に入ると、あの時と変わらない「熱気」と「景色」があった。

懐かしくもあり、嬉しくもあった。そしてサッカーを生で見ることの楽しさを約10年越しに、初めて知った。

そして、私はサッカー観戦にのめり込んだ。チャントを高らかに歌い、ヤジはしないが、精一杯声を出して応援をした。

 

ああ、そうか、と。あの小さいころに、父がみていた景色を、私も見ているんだ、と。選手が懸命に駆け回るフィールドを見ながら、いつのまにか、あの時の父親の姿が自分に重なった。気恥ずかしさもありながら、納得感もあった。

残念ながら、私がサッカーを好きになった頃には、父はサッカー観戦はやめていた。野球を好むようになり、ジェフのことは多少気に掛ける程度の興味となった。私がたまにサッカー観戦の話をすると、多少興味を示す程度だ。少しだけ寂しくもある。

 

私には小さな夢がある。いつか私と父でもう一度スタジアムで生でサッカー観戦することだ。今ならきっと私は父の気持ちがわかると思う。そして親子で全力で選手に向かって応援の言葉を叫ぶのだ。きっと、幼いころ見た景色よりも、心に深く刻み込まれるだろう。